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2009年10月 2日 (金)

琵琶湖疏水番外編 - 建設までの経緯

水道局へ撮影許可を取るスケジュールが読めないため、しばらくは疏水の歴史を復習します。情報としては図書館で調べた程度のものなので、僕の備忘録程度に考えてください。スケジュールが落ち着けばまた散歩に出かけます。

●構想としての琵琶湖疏水
京都と大津を運河で結んで物流の効率化を図るという発想は江戸時代に生まれたものなのだそうです。ペリー来航以来、開港と開市、自由貿易によって国内の産品(特に生糸や絹製品)は海外に流出し、物不足に陥りました。急速なインフレは幕末の京都にも襲いかかり、明治あたまに京都の人口は激減しました。それ以降の京都の近代化はこの頃の苦い経験によって企画されたものなのです。

1860年代には、攘夷によって大坂方面の港が閉鎖されてしまった場合の物資搬入方法としての都市の改造構想が持ち上がりました。京都〜大坂間の物流に重点が置かれており、1820年代から構想が持ち上がりそのまま企画倒れになっていた西高瀬川の開鑿(かいさく、運河を通すこと)が行われました。

それ以前には、1820〜30年代に淀川の舟運を促す浚渫工事や、丹波地域と京都中心部を結ぶ桂川なども行われていました。

琵琶湖疏水も、これらの計画のひとつとして開鑿しようとする動きはあったのですが、事業主体が京都側、大津側、セクター、全てがバラバラであり、資本を集中出来ず、実現にはつながりませんでした。また、封建制度の中では特に、既存の運輸体制(飛脚や荷車等)の権益を守る必要があったため、簡単に新しい事業を興せなかったのも原因として考えられます。

京都の街が明治初頭に急激な衰えを見せるまでは、琵琶湖疏水は夢の事業でしかなかったのです。

今日はこれで終わります。

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